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最強の盾、汝の名は童貞――逃げるは恥だが役に立つ第7話感想

(本稿は『逃げるは恥だが役に立つ』第7話のあからさまなネタバレを含みます。文中敬称略。)

 『逃げるは恥だが役に立つ』第7話のラストは衝撃的だった。ガッキー演じるみくりがきっちり外堀と内堀を埋め、万全の体制で総攻撃を仕掛けたにも関わらず、平匡(童貞)が陥落しなかったのだ。まさに難攻不落。大坂城もびっくりだ!
 私は今まで、恋愛ヒエラルキーの最上位はガッキーのような美女であり、最下層に位置するのは童貞なのだと思っていた。だが、童貞はガッキーに勝った。言わば大貧民でスペードの3がジョーカーに勝つようなものだ。
 普通、美女は童貞のことなど相手にしないので、童貞は単なる恋愛弱者だと思われている。だが、美女とマッチメイクしてみた結果、こと防御力に関して言えば最強の存在だということが明らかになったのだ。すごい、すごいぞ童貞!

 逃げ恥の優れている所はかなり荒唐無稽な展開でありながら、そういうこともあるかも知れないと思わせるリアリティを保っている点だ。特に童貞役が星野源という所が絶妙だ。これが例えば福山雅治だったら、視聴者に「福山雅治が童貞な訳ないだろ! 」 と思われてしまうし、もっといかにも不細工な役者だったら、「ガッキーが好きになる訳ないだろ! 」と思われてしまい、リアリティーが崩れてしまう。いかにも童貞っぽい雰囲気を漂わせつつ、清潔感もある星野源だからこそ成立した役であると言えよう。何だ、すごいのは童貞ではなく星野源か。

 一箇所、これはファンタジーだな、と思うのは、平匡が夜でも全然髭が生えていないことだ。あれが清潔感に大きく寄与していることは間違いない。星野源になるのは無理だが、取りあえず髭はもっときっちり剃ることにしよう。

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人間は変わらないのか――仕事に効く教養としての「世界史」感想

 『仕事に効く教養としての「世界史」』(出口治明著、祥伝社)はライフネット生命社長にして読書家としても知られる出口氏による世界史概説書だ。「この本は、僕が半世紀の間に、見たり聴いたり読んだりして、自分で咀嚼して腹落ちしたことをいくつかとりまとめたものです。」という作者の説明が本書の性格を端的に表している。世界史の出来事が列挙されているのではなく、世界史の勘所が作者の実感を伴った解釈でまとめられている。従って、本書は大変分かりやすく、面白い。

 本書には参考文献がついておらず、正しいのかどうなのか分からないじゃないかという批判がある。
 だが、歴史には事実と解釈がある。例えば、「野田政権による解散総選挙民主党は勝利し、政権を維持した。」というのは客観的事実に反しているので間違いである。だが、「総選挙で何故民主党は敗北したのか?」という問いにはいくつもの答えがある。「消費増税を決めたから。」「官僚を上手くコントロールできなかったから。」「内輪もめをしたから。」どれも間違いではない。歴史には複数の解釈があり、事実に反していない限り、どの解釈にも一面の真実がある。従って、本書の解釈が歴史学者の通説と異なっていても、ただちに間違いだということはできない。


 本書で特に感心したのは中国史だ。諸子百家始皇帝と聞くと、紀元前の現代とは全く違う時代のことだと思いがちだ。だが、出口氏は現代とさほど変わらないのではないかという解釈を提示する。

 諸子百家は必ずしも対立していたのではなく、棲み分けていたのではないか。老子孔子が対立していたのではなく、それぞれのポジションをきちんと取っていた。法家は霞ヶ関儒家アジテーション墨家は平和デモ、それを冷ややかに見ている知識人は道家というように、棲み分けていたのではないか。
 
 そのように考えると、いまの中国も結局のところは、始皇帝のグランドデザインを超えていないという気がします。中央がすべてを取り仕切り、官僚を送って文書行政で統一的に支配するわけです。ただ、建て前だけが変わっていて、政府の建て前は共産主義です。人民は儒家の高度成長を信じていて相変わらず金儲け。知識人は冷ややかに見ている老荘であるということも含めて、社会の構図は基本的には何も変っていない気がします。


 本書には、出口氏の人間は本質的には変わらないという思想が通底している。だが、果たしてそうだろうか? 現代の日本はかつてない少子高齢化社会を迎えている。インターネットの登場によって人々の意識は大きく変化した。現代社会は過去の歴史的知見が適用できない特異な社会なのではないだろうか。

 そんなことを考えている時に、トランプ大統領が誕生した。そして出口氏の慧眼に脱帽した。トランプ大統領の誕生が本書に書かれている朱元璋の明建国と同じだったからだ。

 元のクビライはユーラシア各地の王族に銀塊をばらまくことで、各地の王族→各地の商人→中国商人→クビライという大循環を作り出した。それによって元は大いに繁栄したが、グローバリゼーションの蚊帳の外に置かれた農民達の不満が高まった。やがて貧農出身の朱元璋が明を建国。海禁(鎖国)政策を採る。これによって国力が衰退し、清の時代のアヘン戦争によって中国は完全に没落してしまう。
 これはまさに今日の世界で起きていることそのものではないか。

 やはり人間は本質的には変わらないらしい。過去と同じ過ちを犯さないため、多くの人に手にとって欲しい本だ。

 

仕事に効く 教養としての「世界史」

仕事に効く 教養としての「世界史」

 

 

神田カレーグランプリ2016感想

 11月5,6日に神田の小川広場で開かれた神田カレーグランプリグランプリ決定戦に行ってきた。6日の13時過ぎについた時はラッシュ時の駅のホーム並みの大混雑で、ゆっくりしか前に進めないような状態だった。

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 カレーグランプリは事前の予選期間の投票での上位20店が会場のテントでカレーを販売。カレーを一皿購入する毎に一枚もらえる投票券を、投票所の気に入ったカレー店の箱に投票する仕組みだ。そこで、各店色々と戦略を練って望んでいた。

 まず最初に食べた「とろ肉 魚とん」は一皿の量を絞り、300円という低価格で勝負していた。私がまず魚とんの「とろ肉ライスカレー」を食べたのは安かったからなので、この戦略は有効だったと言えよう。

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 次に食べた「100時間カレーB&R 神田店」は提供スピードで勝負していた。大勢の店員を揃え、注文前にカレーを盛り付けることで、四種類もカレーがあるにも関わらず、他店より素早くカレーを提供していた。流石一昨年の覇者だけあって、戦い慣れている。

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 一方、三番目に食べた「アジアンダイニング シディーク 神保町店」は満腹戦術という全く別のアプローチで攻めていた。二種類のカレーに加え、ご飯の上に大きなナンが乗っており、ボリュームたっぷりなのだ。もし最初にシディークのカレーを食べていたら、これだけ食べて帰っていたことだろう。そうなれば、必然的にその人はシディークに投票することになる。何という巧妙な作戦! いや、単にサービス精神が旺盛なので量が多いだけかも知れないが。

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 「とろ肉ライスカレー」はスプーンで切れるとろ肉が素晴らしく、100時間カレーの「チキンカツカレー」はルーの旨味が超濃厚。シディークの「2カレーセット」は変わり種のグリーンカレーとクリーミーなカレーの二種類が味わえてお得だった。
 どれも美味しかったので、私は食べた三店に一枚ずつ投票した。本当にどのカレーが美味しいか審査するのなら、格子仕切りの皿に一口ずつ20店のカレーが載っているセットを販売して食べ比べる方式にした方が良いんじゃないかと思うが、手間がかかるので現実的ではないんだろうな。


追記:グランプリは「100時間カレーB&R 神田店」が獲得したとのこと。おめでとうございます。

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PPAPは般若心経

 PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)は般若心経だ。曲最後の「ペンパイナッポーアッポーペン」の部分が般若心経最後の真言「ギャーテーギャーテー ハラギャーテー ハラソーギャーテー ボージーソワカ」に相当する。さらに、PPAP全体の内容も般若心経と共通性がある。

 

1末尾が共に意味がない文言から成っており、唱えることで一時的に煩悩を消し去る効果がある。
 「ペンパイナッポーアッポーペン」や「ギャーテーギャーテー…」を実際に唱えてみればよく分かる。唱えている間は余計なことを何も考えていないことに気づくだろう。最近はてなで話題になっている瞑想と同じ効果があるのだ。

 唱える呪文――真言は深い意味がないことが重要だ。「ペンパイナッポーアッポーペン」に意味がないことは明らかだが、「ギャーテーギャーテー…」も「往ける者よ、彼岸に往ける者よ、悟りよ、幸いあれ」ということなので深い意味はない。
 これらの代わりに「雫。大好きだ!」などと唱えれば、頭がたちまち煩悩まみれになってしまう。唱えるのは過去の経験への連想が働かない文言である必要があるのだ。
 南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経といった念仏・題目真言と同じ効果を持っている。阿弥陀仏法華経との思い出がトラウマになっている人などというのはいないので、唱えるのに適当なのだ。

 真言や念仏・題目はリズミカルで唱えやすい必要もあり、その点でもペンパイナッポーアッポーペンは優れている。言語学的には既に佐々木あらら氏の素晴らしい考察があるので、本稿では割愛する。


2共に色即是空について述べている。
 PPAPは意味あるものが無意味なものに変転する過程を説明した歌だ。
 最初の段階で、「私」はペンやリンゴ、パイナップルを持っていると認識している。
 それらを組み合わせたアップルペン、パイナップルペンは使いにくそうではあるが、果物の飾りのついたペンという一応意味のあるものになる。
 だが、それらをさらに組み合わせたペンパイナッポーアッポーペンとなると、もはや意味不明である。重すぎてペンとして使うのは難しいし、分解しないと食べることもできない。ペンパイナッポーアッポーペンは何物でもない。

 PPAPは、ペン、リンゴなどを所有していると思っていても、それらは確固としたものではなく、容易に意味のないものに変化しうるということを述べている。これは般若心経の、色即是空の教えに近い。
 般若心経はこの世の全てに実体がないと言っているのに対し、PPAPは実体がないとまでは言っていないという点は異なっている。だが、万物は変化し、認識は不確かであると説いている点で、両者の主張には共通点が多い。


 PPAP作詞者のピコ太郎氏が般若心経をどの程度意識していたのかは分からない。インタビューでは言及がなかったので、全く意識していない可能性も高い。
 私が感銘を受けたのは、PPAPは誰も不幸にすることなく、多くの人の幸福度を少しずつ高めたということだ。笑いには誰かを傷つけるものが多いが、PPAPにはそういう毒がない。
 ピコ太郎氏は人々を幸せにしようと考え、同じ思いから書かれた般若心経と結果的に似ることになったのではないだろうか。

 

※わっとさんのご指摘を受け、修正しました。南無妙法蓮華経は題目というのを知りませんでした。

 

関連記事:そんなの関係ねぇはお経

 


PPAP Pen Pineapple Apple Pen

なすすべもなく負けると涅槃の境地

 私は千葉ロッテマリーンズのファンだ。だが、球場に足を運ぶのは、2シーズンに1回ぐらいだった。マリーンズは12球団で最も観客動員数が少ないことで知られているが、それは私のような不熱心なファンのせいである。
 しかし今シーズンはファンクラブ会員になったこともあり、2回応援に行った。去年までは計3回なので大幅増である。

 過去3回、私が行った試合は全てマリーンズが勝った。それは私が強運の持ち主だから――ではなく、予告先発投手を見比べて、勝てそうな試合の時に応援に行っていたからである。
 しかし今年はむしろ劣勢そうな試合の時に応援に行った。負けそうな試合こそ応援の力が必要とされているのに、勝てそうな試合だけ行くとは何事か。お前はそれでも真のマリーンズファンか、と考えた――わけではなく、そうする事情があったのだ。

 最初に球場に行ったのは5月6日の対オリックスバファローズ戦。ロッテの先発はしばらく二軍で調整を続けていて、久々に一軍で登板する唐川。対するオリックスはエースの金子。あまり勝てそうもない。
 だが、この日はバリュー試合に設定されており、外野応援席の値段がわずか千円だった。安い! というわけで応援に出かけた。
 結果は5対0でオリックスの勝利。唐川は7回2失点と頑張ったのだが、金子にロッテ打線が散発の4安打に押さえこまれ、あまり点が取れる感じがしなかった。

 二回目に観戦に行ったのは 8月13日の対ソフトバンクホークス戦。ロッテの先発はルーキー関谷。対するソフトバンクの先発は千賀。千賀は当時8勝1敗と絶好調。しかもロッテはソフトバンクに三試合に一回しか勝てていない。戦う前から劣勢は否めない。
 だが当時、ロッテはソフトバンクに引き離されているものの二位であり、ここでソフトバンクを三タテにできれば、優勝の可能性もあった。そして私の手元にはファンクラブ入会の際にもらった内野自由席の無料券があった。ぐずぐずしていると、無料券を使い損ねてしまう。というわけで応援に出かけた。
 結果は3対0でソフトバンクの勝利。関谷は7回3失点と頑張ったのだが、千賀にロッテ打線がわずか1安打に押さえこまれ、全く点が取れる感じがしなかった。 
 
 試合終盤に逆転されて負けるととても悔しい。だが、このようになすすべもなく負けると悔しくない。悲しくもない。感情は動かず、ただ幸福値だけが下がったような気分だ。太陽は東から上る。枯れ葉は木から落ちる。弱いほうが負ける。何の不思議があろうか。

 

 唯一嬉しかったのは、ファンクラブ特典としてオリックス戦ではピンバッチ、ソフトバンク戦ではブランケットがもらえたことだ。

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このブランケット、一見普通のマリーンズ柄なのだが、開けてみると――

 

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 涌井選手と清田選手の等身大ブランケットになっているのだ!

 

 これを見て抱きまくらみたいで使いづらいと思ってしまうのは私のマリーンズへの愛が足りないからだろうか。

文末のリズム――モコ&猫感想

(本稿は『モコ&猫』の結末部を丸々引用しています。つまりもろネタバレです。)

 『モコ&猫』は『このたびはとんだことで 桜庭一樹奇譚集』(桜庭一樹著、文春文庫)の巻頭をかざる短編だ。胡麻油の瓶みたいに黒光りした女子大生「モコ」と彼女のストーカー「猫」の両片思いを描いている。ひたすらモコを見るだけで付き合おうとはしない猫の偏執的な様が気持ち悪いのだが、あまりに好きすぎて断られたらと思うと想いを告げられないという大学生の心の動きがリアルで、昔を思い出して胸が締め付けられる。

 いちばん最初に会ったとき、ぼくのモコはちょっとばかりおかしな服を着ていた。確か……大学のなんかの講義の途中だったと思う。詳しいことはぜんぶ忘れた。だってあれから十年近く経ってる。しかたない。ぼくも、モコも、じゅうはちだった。ぴちぴちだった。そんなころのことをいまもよくおぼえてるはずがない。

 砕けた語り口が印象的な、躍動感のある書き出しだ。文末を見ると「た、う、た、る、い、た、た、い」となっている。文末をバラエティ豊かにすることで、リズムを生み出している。「じゅうはちだった。ぴちぴちだった。」と短く「た」を重ねているのも効果的だ。

 一方、結末部では、全く逆の手法が用いられている。

 この気持ちはなんだろう。
 暗く、ガランとした座席から、スクリーンを見上げ続けた、この気持ち。
 ぼくは、まちがっても聞こえないように、小さなかすれ声でつぶやいた。
「……愛してるんだよ、モコ」
 タクシーが走ってきたので、手を挙げた。
 後部座席に乱暴に押し込むと、モコは顔を上げて、酔っぱらいそのものの潤んだ瞳でいぶかしそうにぼくを見た。ぼくは満面の笑みを浮かべて路上から手を振った。
 モコもきょとんとした顔で手を振りかえした。
 唇が、たぶん「ね、こ」という形にちいさく動いた。タクシーのドアが閉まり、夜の街を走りだした。ぼくは立ち尽くして見送っていた。着慣れないスーツのせいで肩がこっていた。タクシーが赤信号で停まった。モコはこちらを振り返り、かなしそうに、まるで売られていく牛のように首をかしげて僕をみつめていた。
 やがて信号が青になり、タクシーがすごい勢いで遠ざかっていった。窓越しのモコの顔も、かすんで、光って、よくわからないシルエットになり、視界からゆっくり消えた。

 それで、それきり、モコに会ってないのだ。

 情景がありありと浮かんでくる別れのシーンであり、タクシーが一度停まることによって二人の離れ難さを表現している所なども実に上手いのだが、私が特に感心したのはその文末だ。
 「……愛してるんだよ、モコ」と「それで、それきり、モコに会ってないのだ。」の間に12文も「~た。」を重ねているのだ。これによって猫の押し殺した感情を表現し、その両サイドにある二文をくっきりと浮き上がらせている。脱帽だ。

 『モコ&猫』のような傑作を読むと、こんな鮮やかな小説は自分には絶対書けないと匙を投げてしまいそうになる。だが、このようなすごい小説であっても、『文末の「た」を重ねる』といった技術の裏打ちによって成り立っている。
 凡百の徒が桜庭氏のような作家に近づくために出来ることは、技術を学ぶことしかないのではないだろうか。

 

 

はてなーの手斧は何のため?――リンゴ日和。移転について

 リンゴ日和。がライブドアブログへ移転したはてなは一つ優れたコンテンツを失ってしまった。
 先ごろからのリンゴ日和。へのバッシングには腸が煮えくり返る想いだった。ひどいコメントに、低評価ボタンがあれば一万回くらい連打してやるのにと思って歯噛みしていた。

 リンゴ日和。へのバッシングは在特会生活保護バッシングと同じ構造を持っている。どれもが、ずるをしていると言いがかりをつけて自分が気に食わないマイノリティを排除しようとしているのだ。
 ひーたむさんがはてなのルール違反をしていないことは明らかだ。もしひーたむさんのような著名ユーザーがルール違反をしていたら、運営がアカウントを停止するはずだ。はてなの公式ルールに反しているという以外の批判は全て、単に俺が気に食わないと言っているのと変わらない。

 はてなでは言葉の手斧を投げ合う一匹狼が幅を利かせており、ひーたむさんのように穏やかに話し知り合いと仲良くできるような人は少数派だ。
 私は独身で友達も少ないので、一匹狼の気持ちも分かる。幸せな家庭を築き、プロエッセイストデビューしているひーたむさんが羨ましい、妬ましいという気持ちは私の中にもある。だが自分の鬱憤を晴らすために手斧を投げるのは間違っている。そういうことをする人は、手斧が相手を傷つけるという当たり前のことを忘れているとしか思えない。

 はてなーが手斧持っているのは多様性を圧殺しようとする者に立ち向かうためで、気に食わない者を排除するためではない。手斧を投げていない人にいきなり投げつけるような手斧は害悪でしかない。
 はてなはインターネットの中では在特会的なものに批判的なコミュニティだと思っていた。普段は手斧を投げ合っているブクマカー達が、人権を侵害するようなニュースには一致団結して批判に回る様を頼もしく思っていた。そんなはてなでこうしたバッシングが起き、心ないコメントに多くのスターがついたことに私はショックを受けた。

 多様性を尊重せず、寛容の精神を失った集団は衰退する。過去、多くの集団が、せっかく生まれた新しい芽を古参が「こんなのは○○じゃない」と潰すことで衰退していった。はてなーも同じ過ちを犯していないだろうか。はてなには大好きなブクマカーやブロガーが沢山いるのでそんなことにはなってほしくないのだが。


 ひーたむさんには新天地での活躍を期待しています。スマホを持っていないので、LINEによる更新通知は受けられませんが、ぼちぼち見に行こうと思います。 

 

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